文学とAIの理想的な循環とは
こんにちは!x-climbの坂本です。
私は現在、x-climb社のマーケティング担当として働く傍ら、大学で日本文学を勉強しています😊
その中でも、中古文学という一般的には聞きなれない、政治歴でいう平安時代の貴族文学・物語文学(主に源氏物語)を研究対象としています。
もともと、本は紙で読み、辞書も紙のものを使うという超アナログ人間でしたが、IT業界に身を置いたことで、キャッチアップする情報も随分と変わり、以下のような嬉しい記事に出会いました。
AIが小説を書く。
この問題は、文学部の中でも一時期とても話題になりました。物語制作にはある程度、ルールや法則がありますから、その辺りを細かくプログラミングすれば、近い将来きちんとした長編小説も出来上がるのでは、というのが個人的な見解ですが、私がこの記事で一番感動したことは、AIのような最先端の技術の目が「未来だけでなく、過去にも向けられている」という点です。
- 古典作品は忘れられないことが重要
前述した通り、私は1000年以上前の物語を研究対象にしています。
源氏物語ほどメジャーな作品ですら、「最初から最後まで全て読んだことがある」という人は、日本文学科の学生の中でも極めて稀です。
現代における古典作品はもはや、いかに多くの人に読んでもらえるか、というより、いかにその存在を忘れられないかが重要です。
どんなに素晴らしい作品でも、よほどの機会がなければ思い出すことすらない、というのが現実なのです。
また、古典作品に不可欠な翻訳作業は、知識も労力も必要です。特に、登場人物も多く、人間関係も複雑な源氏物語全54巻の翻訳など、並大抵のことではありません。
この偉業を1000年の間に成し遂げた人はたった8人。
よほど好きな人でなければ(またどれだけ好きであっても)出来ることではないのです。
手に取る人も少なく、新訳をする人もめったにいない。現代語訳は古いものしかなく、どんどんとっつきにくい存在になる。
そうすると、自然と古典作品は廃れていってしまいます。
ですから、去年、森見登美彦訳『竹取物語』や江國香織訳『更級日記』角田光代訳『源氏物語 上』など、現代の人気作家が翻訳をした古典作品が収められた『日本文学全集』が発売されたときは、文学関係者、古典愛好者達はまさにお祭り騒ぎでした。
まるで翻訳とは思えないほど、現代小説的な文章で、実際の売れ行きも好調のようです。
結局、現代における古典作品は「新しいこと」や「誰が訳しているか」は非常に重要なのだと思います。
- 古いものと新しいものの理想的な循環とは
そういった文学界事情の中出た今回の記事。
最新のテクノロジーを利用して、新しいものが生み出される一方で、過去の作品がクローズアップされるかもしれないとの内容に、心踊らずにはいられませんでした。
記事の中では、向田邦子や司馬遼太郎など作家の続編を、AIが執筆する例が挙げられていますが、AIが膨大な労力を必要とする古典作品の翻訳作業を行なったり、その続編を執筆する日がくれば。
その話題性が起爆剤になることこそ、今の文学界には必要でしょう。
人間とAIの作品、どちらが優れているかの議論が起こることも、むしろ好ましいのです。
そうして、少しでも多くの人が「そういえば高校の時にこんなの読んだな」とか、「古典作品なんてちゃんと読んだ事ないけどこれを機に‥」なんて思ってくれたら御の字です。古いものと新しいものとの、最高の循環と言えるでしょう。
- おわりに
長くなってしまいましたが、最後に少しだけ源氏物語のお話を‥。
源氏物語は「あはれの文学」と呼ばれ、作中には全部で900回を超える「あはれ」が書かれます。
辞書的な意味は「さびしい」「悲しい」「可愛い」「いとしい」「しみじみと心動かされる」など様々ですが、その訳は人それぞれ。
訳者のセンスや感性が試され、読み手もその違いを楽しみます。
光源氏が、奥さんと親友との間にできた不義の子(しかも顔は親友にそっくり)を前に言った「いとあはれ」や、義理の息子に口説かれた藤壺が、理性を持ってやっと返した(あなたの舞は)「あはれ」(でした)を、AIは一体どう訳すのでしょう。
そんな日が楽しみで仕方ありません。
x-climb 坂本
Twitterもやってます😊
女性差別の問題で、源氏物語が話題に上がるのは、不謹慎ですが少し嬉しい。。。
— Sakamoto@x-climb (@xclimb2) 2018年8月6日
全54巻読もうとして、途中で嫌になってしまうのが一番もったいないです。
光源氏と藤壺(父の奥さん)、朧月夜(敵の娘)、女三の宮(光源氏の親友と浮気)‥など、気になる"女"ごとに読んでいくのもアリかもしれません。 https://t.co/81S8XskDYJ