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x-climb株式会社/オフィシャルブログ

システム開発を成功させるために・・

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整理された要件とWBSをもとに、ガチッとウォーターフォールだけでやりきるには、今の時代の流れはあまりに早すぎるし、むしろ多様な変化に対応できない開発会社は今後生き残ることさえ出来ないと考えている。

 

その上で、はっきりと言おう。 

 

「システムの受託開発という仕事は、どこまでいっても人間臭い商売である。」

 

例えば一年間の開発プロジェクトがあったとしよう。

 

最初の設計フェーズでガチッと仕様を決めて、厳格なPMのもとウォーターフォールで走らせることに。

 

しかし、もう半年後には、よりよいアーキテクチャや外部ツール、ライブラリなどが公開されていて、設計自体を幾分か見直す必要が出てきた。

 

ここからが、様々な利害関係や思惑が渦巻く人間臭いドラマの始まりである。

 

保守派と改革派。厳格と柔軟。自身の業務負荷を増やしたくない者と、よりよいプロダクトを純粋に求める者。

 

受託開発は、クライアントあってのビジネスなので、開発側がよりよいものを追い求めるだけでは成り立たず、時にはクライアント経営者の目線で、時には現場担当者の目線で、予算・納期・仕様をバランスよく調整し、戦略的な妥協や後回しといった一見ネガティブに感じる意思決定さえも辞さずに突き進めていく必要がある。

 

決して、開発側の自己満足ではいけない。

 

クライアントは、大いなるビジョン実現のため、我々をパートナーとして選び、我々を信じて投資したのである。

 

その英断に敬意を払い、責務の重みを真摯に受け止め、泥臭い努力から鮮やかな結果を出さなければならない。

 

この場合の結果というのは、クライアントのビジネスの成功を指す。

 

つまり、言われた通りのシステムを開発することではないのだ。

 

開発したシステムを通じて、描いたビジョンの実現やビジネスの成功に導いてこそ、「結果を出せた」ということなのである。

 

もっとはっきり言えば、クライアントはシステム開発に投資しているわけなので、全体的にROIが見合う結果に導く必要がある。

 

それを企画や設計の段階から、クライアントと共にどれだけ詰めていけるか。

 

そこに、我々の価値がある。

 

実際に、そこまで責任を持って取り組む姿勢を評価され、我々は今日まで生き残ってきたという自負と誇りがある。

 

つまり、我々は単なるシステム開発会社ではなく、システムを通じた事業プロデュース会社なのだ。

 

黒子役として、素晴らしいサービスや製品に更なる成功をもたらすことが、我々の存在意義なのである。

 

それを忘れず、眼前のシステム開発という仕事に、今日も向き合っていきたい。

 

x-climb 飯降

 

 

 

 

 

超人的な働きマン

 

朝飯のパンケーキ食いながら考えていたこと。

 

うちのじーさんは演歌でCDデビューなどしてなかなか活発なのだが、今は亡きもう一人のじーさんも超人だった。


奈良の山奥に潜んでいたそのじーさんは、とにかく仕事が出来たらしく、地元の村人たちが知恵を借りに頻繁に訪ねてきたらしい。


ドラクエでいう村はずれの重要キャラであり、会話しないとフラグが立たないほどである。ときには村会議員など、政治家関係も来たとか。

 

そんなうちのじーさんは、とにかく早起きだったという。


朝の3時に起きて仕事を始めるらしい。
いやもうそれ朝ちゃうし深夜やん、と言いたくもなるのだが、やはり出来る男は超人的な朝活をしているのか、と深く考えさせられたりもする。

 

とにかく、よく働くのである。


常人には考えられない時間に目覚め、圧倒的な量の仕事をこなし、ストイックに日々を行き抜く様は、孫の僕にも印象的だった。


僕はそんなじーさんを素直にかっこいいと思うし、超人的なところに憧れを抱いたりもする。

 

しかしじーさんは僕が10歳のとき、病に倒れてしまう。


すでに癌は転移していて、余命あと僅かという病床でも、最後まで起業の計画を練っていたらしく、命が消える瞬間まで一旗あげようと企んでいたに違いない。

 

そしてその14年後。なんの因果か、孫の僕が起業を志し、会社を立ち上げたのである。

 

隔世遺伝なのかなんなのか分からないが、受け継がれる意志というのは確かに存在し、志半ばで力尽きたうちのじーさんをなんとなく想うこの頃である。

 

そういったものに想いを馳せるとまた少し、苦境の中でも踏ん張れる気がしている。

 

x-climb 飯降

人は感情の生き物

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お世話になっている先輩経営者の中に、数学全国模試で一位をとったことがある人がいる。

 

その人は仕事で行き詰ったりストレスを抱えたりすると、数学の公式集をながめて心を落ち着かせるという。

 

なぜ数学なのか?尋ねてみると、「数学には確かな″解”があり、論理的にすべてを証明できる。そこに心が落ち着く。」という返答だった。


確かにビジネスは人とのやり取りが必然的にあり、ときに論理ですべてを推し進めることが出来ないものであると僕自身日々痛感している。

 

なぜなら、人は論理の生き物ではないからだ。

 

人は感情の生き物である。

 

正しいと頭で分かっていても、正論を突きつけられるとむっとして、素直に認めることが出来ない。

 

さらに言えば、自分の正当性を意地でも立証したくなるのが人間の性だと思う。

 

だからこそ、そこに人としての器が見える。

 

自分に非があるときは素直に認め、「注意してくれてありがとう。」ではなく、「ごめんなさい。」という言葉をまず言えるかどうか。

 

また、注意する側も、議論で打ち負かしたところで相手の心は動かない、ということを知っておくべきだ。

 

人間関係のトラブルにおいて、″正論はときに正しくない”のである。

 

人材マネジメントに携わることが多く、僕自身つい説教臭くなるときもあるので、人は感情の生き物ということを忘れたらあかんなと自分に言い聞かせ、身を引き締めるこの頃です。

 

x-climb 飯降

起業家の役割

 

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最近、身近な人が死の局面に面し、命は助かったものの、改めて人の命の儚さを痛感した。

 

当たり前のことだが、人は死ぬ。

 

ふいに接近してくる死と限りある人生に対し、“人の命が輝くとき”というものを真面目に考えると、それは誰かの心を動かした瞬間じゃないかと思っている。

 

それはアスリートやミュージシャンといった不特定多数を感動させられる人に限った話じゃなく、心を動かす瞬間を生み出せるのはすべての人に共通していることであり、その刹那的なきらめきの積み重ねこそが人生に彩りを加え、充足感や達成感を与えるんじゃないかと。

 

そう考えると、人の命が輝く舞台を用意し、感動の瞬間や喜びが生まれる仕組み作りをするのは、我々起業家の役目の一つじゃないだろうかと勝手に使命感が沸いたりもする。

 

パレードやショーで感動する瞬間を演じるプレイヤーもいいけど、その土台や仕組みを設計することも魅力的であるように。

 

別にエンタメ事業をしたいとかじゃなく、シンプルに、起業家は人が生きるうえでの土台作りを担ってもいいんじゃないかという、そういう話。それはインフラなのかもしれないし、金融なのかもしれないし。

 

そういう志を忘れず人生に挑み続けていると、死の間際にはほんの少し「まあ頑張ったよな、俺。」と自分をねぎらってあげられる気がする。

 

死ぬときの気持ちなんてさっぱり分からないが、なんとなくそれは大切なことかもしれない。

 

x-climb 飯降